「だから、きっと」

 

 隣から聞こえてくる呼吸音が、規則正しく、深いものへと変わったことがわかって、私はずっと潜めていた息を吐いた。

 そっと上体を起こして、閉じられた瞼を縁取る濃い睫毛の艶やかさなどに見入る。

 よく寝てる。

 寝つきが良過ぎると友達からよくからかわれる私とは少し種類が違うかもしれないけれど、この人も呆れるほどに寝つきがよいようだ。しかし、この私が寝てなどいられないようなこの状態で、静かに寝入る事ができるということは、やはり器が違うということだろうか。

 寝てなどいられない状態──先ほど、自分達がしていた行為を思い出して、不意に顔が熱くなった。体中、指の先まで一気に紅くなって震えていこうとする。

 とにかくなにか違うことでも考えようと、私は視界を彷徨わせ暗闇の中で懸命に目を凝らした。昨夜初めて足を踏み入れたこの部屋は、いま、私の隣で寝ているこの、つい昨日まで気にはなるものの単なる同僚だった筈の、安田亮平のマンションだ。八畳ほどの洋室に小さなキッチンと小さなユニットバスが付いてるだけのワンルーム。このベッドの横に、一人で使うにしては大きなコタツがあって、その上にはテレビも観れるのだというノートパソコンが置いてある。仕事で使う専門書が並ぶ本棚の丁度真ん中の段には調味料が並んでいた。私にとっては異次元のように不思議な空間のように目に映った。それでも十分に片付いてはいた。スーツの上着はきちんとハンガーに掛かっていたし、ゴミや本が山積みになっていたりしなかったからだと思う。

 部屋の主である彼が起きていた時には思いもしなかったけれど、勝手に暗闇の中で安田さんの部屋を観察すればするほど、まったく自分とは違うルールに基づいて整えられている部屋の有様に、ここは私のテリトリーではないのだと思い知らされて急に気持ちが落ち着かなくなった。

 ここに彼は一人で住んでいるのだと聞いているのに、私の知らない誰かが、今にもドアを開けて入ってきそうで恐かった。

 繋がれた手に思い切り縋りつきたいというか、いっそのこと隣で眠る安田さんを起こしてしまたい思いが高まったけれど、それとはまるきり反対に、繋いでいるこの手を離して逃げ去ってしまいたい気持ちも湧き上がる。それは急速に私の中で膨れ上がった。

 このまま彼が起きださないうちにここからいなくなってしまえば、今夜の事はなかった事にできるのではないだろうか?

 起こさないように気をつけながら、慎重に手を引き抜こうとしたのだけれど、もう少しで全部が離れてしまうという瞬間、この手を離してしまうのがとても勿体無いような切ない気がして、あとほんの少しで離れるというところで動かすのを止めた。

 キスをした時になんとなく繋いだ手を、結局最後まで離さずに、シャワーまで浴びてしまったのだ。きちんと乾かせなかった髪が湿気って頬に冷たくて、自然に視線が下へと向いた。その先に、幸せそうに眠り続ける安田さんの顔がある。

 男のクセに長い睫毛を規則正しく揺らして眠るその頬に、うっすらと伸びてきている髭すら愛しく思う。こんな考えが浮かぶのもこの恋愛が始まったばかりだからというだけなのだろうか。

 触れている先からすらりと伸びる手指。それから繋がる腕も肩も首も鎖骨も腰も、全部。あの人とは全てが違うのだと、誰にも邪魔されない今、ゆっくりと観察して改めて思う。

 ニコチンの苦味のないキスも、抱きしめられた時の匂いも、肌に触れる髪の硬さも、肌の感触も、昨夜の記憶の中のそれも、なにもかも。そして、私の身体が示した反応も違う。違いすぎた。

 肌と肌をくっつけているだけでこんなにも幸せだと思える人がいるなんて、思わなかった。いつまでも、抱き締めて抱き締められていたい。触れていたい。触れて欲しいとそう思うほど。

 それともそれは、私がどれだけこの人の事を求めていたのかということだけの事なのだろうか?

 抱き締められ壊れそうだと思ったあの時と、壊されたいと願った先ほどの自分。あの時と今と、酷いと思うけど全然同等なんかではない気持ち。

 けれど、あの時、幸せだと私を抱きしめてくれたあの人を、幸せにしたいと思ったのも決して嘘ではなかったのに。

 抱き締めてくれていたあの手を振り解いて、この手を手に入れた。

 だからきっと、いつか自分のこの手も、振り解かれる時(また振り解く時?)が来るのかもしれないと、そう思った。

 

 昨夜、彼が飲み干したビールの空き缶と私が飲み残したそれが、部屋の真ん中の小さなテーブルの上にそのままになっているのが目に映った。

 咽喉がカラカラになるほど口唇が乾いていたのに、手が震えてしまってほとんど口元に運べなかった昨夜の自分の滑稽さに苦い笑いがついて出た。

 永過ぎた春と言う言葉をよく聞くけれど、正にそれだったのだろう。卒業と同時に同棲を始めたのだからもうすぐ二年にもなる雅之との生活は、一緒にいるのが当たり前で、ときめきどころか喧嘩してまで意思の疎通を図ろうともしなくなっていた。

 お互いの職場のちょうど真ん中の駅に借りたアパートでの暮らす、単なる同居人。そこにセックスフレンドという意味も兼ね備えていたかもしれない。

「来いよ」

 そのひと言で始まる、異性に求められる自分を確認することだけはできる時間。ただし、そこにはいつも求められること、しかないのだけれど。

 

 隣にいるこの人を、仕事仲間という言葉で誤魔化すことすら出来なくなってしまっていた昨日の私。

『付き合ってる相手がいる人の方が、付き合っている相手がいない人より偉いなんてことないし』

 お昼休みの食堂で女の子たちで集まってしていた彼氏の愚痴というか自慢話。そこに投げかけられた安田さんのこの言葉が、いまでも頭の中で繰り返される。

 十も年下のアイドル達が歌うJ―POPの歌詞に、言葉通りに踊らされている自分を指摘されたみたいで苛立ちを抑えられなかったっけ。

   ── 永遠の、愛。たったひとつだけの、ひかり輝く愛こそすべて。

 初めて貰った『アイシテル』のその言葉に、縋りついていただけなのだと、気付きたくもない現実を突きつけられた気がしてた。苛立てば苛立つほど、私は、自分に降り注ぐそれ“だけ”が欲しかっただけなのだと、思い知らされる気がして、一時は視界に入ってくるだけで憎かった。それくらい、この言葉が頭の中で繰り返されていって、安田亮平という人間が、私の中で同じ部署の人なだけではなくなっていって……。

 けれど、決して嫌いになった訳ではない雅之とのことを断ち切る勇気も、私に対して同僚以上の態度を取ることもない安田さんに対して踏み込んでいく勇気も持てず、ずるずると安穏とした時間を過ごしていた。けれども、同じ部署の仲間としてだけだとしても、他愛のない会話を重ねるたびに心が近づいていくのをとめられなかった。いつの間にか心の中にいる私だけの安田さんと相談しながら過ごしている自分に気がついて、とっくに移ろいでしまった心の在り処を受け入れるしかなかった。

 受け入れた、ただそれだけのはずだったけれども、でもやはり表に出ていたのかもしれない。

 これまで一度だって二人きりでの誘いをしてきたりしてこなかったこの人が、突然、食事に誘ってくれたのだから。それも、一週間も猶予を空けて。

 あまりにも近くなってしまった心の在り処に、ある種の覚悟を決めて約束を受けたのに。いざとなったら、二軒目の店でただ早く終電の時間がくることだけを祈っていた。

 

 目を凝らして、もう一度、置きっ放しにされたままの空き缶二つに目を凝らした。そこに当たり前のように存在している、安田さんと私の痕跡。

こうして少しずつ、この部屋に私というものが溜まって行くのだろうか。一緒に買った物が増えて、一緒に使うための物が増えて、この見覚えのない部屋の中に私のための物が増えていくのだろうか。それを買おうと楽しく話し合う時間があって、腕を組みながらまち並みを歩き回り買いに行く時間があって、それを壊れるまで使う時間が、これからの私達の間に本当に生まれて行くのだろうか?

それら全てが二人の記憶として、これからの貴方と私を形作って行くなんて、本当にあるのだろうか?

いまこの一瞬、肌を合わせているだけじゃなくて ── ?

繰り返す、記憶と追憶と想像。壊わしてしまった恋の記憶と、多分これからみるのであろう恋の夢。

 

 カーテンの隙間から差した月の明かりに、涙が溢れた。
 みっともない自己憐憫からでしかない涙。
 でもいつか、この涙も過去のものとなるのだろうか。いい思い出とか言うものに。

 永遠なんて無いって知ってる。

 どんなに悩んで決めた事だとしても、遠い未来に悔いる日が来ることもあると言う事もわかってる。知っている。
 無い物は壊れない。大切にしようとするまいと、形あるものはいつの日にかは、全てが壊れる。

 しかも私は、破壊者だ。
 別れを切り出した時の雅之の顔が頭をよぎった。潮時だと思っていたのは雅之も一緒だったんだろうけど、まさか私から言われるとは思ってもみなかったに違いない。雅之なりのプライドもあったんだろうけれど、5年も続いた関係があまりにも簡単に終わってしまったのには驚いた。

 だから、いま始まったばかりのこの関係だって、明日も終わってしまうのかもしれない。
 それどころか、もしかしたら、関係が始まったと思っているのは、私だけかもしれない。

 それでもきっと、どんなに時間が経とうとも、どんな結果が待っていようとも、いまの自分を恥じたりしない。

 それだけだ。今の私に、自信があるとしたら。

「…美散……」

 離れかけていた手を、寝惚けた彼が、ぎゅっと握り直した。そんな寝惚けた仕草に、こんなに心が強くなる。

 肌蹴けかけていた毛布を、そっと彼の肩に掛けなおして、私は彼を起こさないように、そっとその隣に潜り込み、目を閉じて強く手を握り返した。

 

 だから、きっと、愛してる。

  

 

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その内に、これのもっと長いバージョンをUPするかもしれません。
しないかもしれませんが(^^;