「ハッピーバースディ」

 

 5年も一緒にいた彼とクリスマス前に喧嘩別れした。
 自棄っぱち気分で忘年会で3次会まで騒いだ挙句に大風邪を引いて、そのまま年越しで寝正月ならぬ寝込み正月を過ごした。年末年始は病院もやってなくて結局は治りきらずに出社して部署に病原菌と混乱を撒き散らした挙句に半月近く入院した結果、どうやら私は職場を失ったらしい。私が職を失ったというだけじゃない、私が退院して職場復帰できるようになった時には勤めていた会社自体がなくなっていたという方が正しいと言えるだろう。

 ひさしぶりに出社しようと電話をしても一向に通じないので、仕方がないと普段より少し早めの時間に出社して吃驚した。スプレーの赤いペンキらしきもので『社長死ね』や『ふざけるな』等々口汚く落書きされたシャッターは固く閉じられ、そこには破れ掛かった張り紙が一枚残されているだけだった。
 足跡がくっきりと残るその紙には、裁判所で破産手続きの開始が決定された事と管財人の弁護士とやらの連絡先だけがワープロのつまらない文字で書き記されていた。頭が上手く働かなくてしばらくそれをぼんやりと見ていたのだけれど、背中がぞくぞくしてきたので、とりあえず携帯のメモ帳にその連絡先と裁判の受付番号らしきものを控えて来たばかりの家路をそのまま戻ることにしたのだった。

 そこからどうやって家に戻ってきたのか、実は記憶が定かではない。
 ただ、玄関先でコートも靴も脱がずに崩れ落ちたらしい私は、その日から再び寝込むことになった。咽喉の渇きに目が覚めた私は、視界の先の自分の体が真っ赤になって震えていることに気が付いたのだった。パンプスの片方は勝手に脱げて、ストッキングは伝線して、冬のボーナスで新調したばかりのスーツはよれよれでスカートには泥が付いていた。
 もう熱を測る気にもならなかったし、病院に行こうという気も失せていた。なにもしたくなかった。トイレと水を飲むのと寝る事以外は。
 管財人に連絡をしなければという思いが、たまに頭の中を去来するものの実際に電話を掛ける気にもならなかった。倒産からすでにひと月近く経っているというのに上司や同僚達から一度たりとも連絡の来ない自分にはそんな資格はないような気がしていた。
 もしかしたら自分は風邪で休んでいる間に馘首にされていたのではないか。法的に問題があるからそんな事はありえないと知っているのに、そんな妄想にも苛まされた。
 世界中で誰からも必要とされていない自分という存在。会社からもだけれど、正月に風邪で寝込んで帰らなかった実家からも連絡はない。学生時代の友人達とも長くご無沙汰状態だ。だって、これまではずっと彼が、正志が傍にいてくれたから……
 正志、いま何やってるかな。どうしてるかな。新しい彼女できたかな。

 あなたが出て行ってしまった部屋は広くて寒くて暗いです。ぽっかり開いたあなたの机があった場所が目に入るたびに胸が苦しくて毎日寂しいです。
 すれ違いが続いて疲れもあって喧嘩ばかりの最後だったけれど、こうして今思い出すのはあなたと笑って過ごした記憶ばっかりだよ。初めてのデートで30分早く待合せ場所に行ったのに、その30分前からそこにいたといって照れながら笑った正志の顔とか、アパートの更新にかこつけて『ここで一緒に暮らしたいな』と鼻の頭を掻きながら言ってくれた姿とか。いつも風邪を引いて寝込むのは正志だったね、リンゴを剥いたら『食べさせて』って言ってきたっけ。甘えた仕草が可愛くて、あの頃は何でもしてあげたいと思っていたのに。なんでこうなっちゃったんだろう。

 なんで私は暗い部屋にひとりで寝ているんだろう。誰も傍にいてくれないんだろう。

 天井が歪んで見えるのは、高すぎる熱のせいだ。今にも涙が溢れてきそうになってる気もするけれど、それだって熱のせいだ。そんな気がするだけだ。口から漏れているのも嗚咽なんかじゃない。泣いてなんかいない。女たるものこんなところでひとりで泣いたりしない。泣くなら男の前で、だ。あれは舞台を効果的に表すための小道具なんだから。だから……
 自分に対してまで強がりをいってみせたのに、勝手に瞳に溜まったそれが強引にこぼれ落ちてしまいそうになったその時、枕元に置いてあった携帯が鳴り響いた。

 慌てて手に取り震える手で通話ボタンを押すと、そこから聞こえてきたのは知っている声でも知らない声でもなくて、可愛いオルゴールの音だった。それも、ハッピーバースディ≠セ。綺麗だとは思うものの、どこか暢気に響くその曲が、あまりにも今の自分の状況と重ならなくて呆然と聞いてしまった。しかし、名乗りもしないでオルゴールを聞かせるようなイタズラ電話に癒されてどうすると気を取り直し、番号を確かめようと携帯の画面を確認しようとして、気が付いた。
 あと10分しかないけれど、今日は、私の30回目の誕生日だった。
 電話を掛けてきたのは見覚えのない番号の携帯からで誰だか判らなかったけれど、でもそれでも、私は確信をもって電話を掛けてきた主に問いかけた。

「正志……正志なんでしょ? 私よ、由香子よ。あの時はごめんなさい。私の悪いところは全部直すから、だから、もう一度やり直したいの」

 我慢していた言葉を口にした途端、我慢していた涙が頬を伝っていく。我慢をやめた解放感と答えを待つ緊張感で眩暈がする。
 電話の向こうからずっと聞こえていたオルゴールの音が止まり、ごそごそと動く気配がする。早く、何か言って欲しい。

「……えっとあの、ゆかこ?」
「そうよ、あなたの由香子よ!」
「ちっ、間違えた」

 プーップーップーップーップーップーップーップーップーップーップーップーッ…………

 ──── ピッ。

 話が切れた事を示す寂しい音を奏で続けていた携帯を切り、勢い良く布団を跳ね除けた。

「ヨシ! 求人情報誌、それと弁当でも買いに行くか」

 私はことさら大きく声に出して立ち上がった。
 出かけるならば、なによりシャワーを浴びて化粧もしないといけない。


 新しい恋は、どんなところに転がっているかわからないのだから。

 

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投稿サイト用では、

 プーップーップーップーッ……
 握り締めた携帯からは、通話が切れた事を示す寂しい音が聞こえて続けていた。

として投稿したのですが、本来はこのラストでした。
投稿準備をしているうちに蛇足な気がして切ってしまったのですが
ラストが弱いという意見を戴いたので、元の形に戻してみました。